はじめてのお泊り
マルコムの家に初めてお泊まりしたのは、なんと、ペットシッターのためだった。
願ってもない申し出
あれは、修士課程の最後に提出する、いわゆる卒業論文を書く時期のことだった。
6月。
6月といえば、ヨーロッパは最高の季節だ。マルコムは、トルコに、ウォーキングホリデーに行きたいという。
一人暮らしの彼にはマジックという黒猫と、たくさんの植物があり、長い期間留守にするのは無理だった。
彼は、私に聞いた。
「うちで論文を書いてはどう?」
一人と一匹の12日間
願っても無いことだった。
当時は大学の学生寮に住んでいたのだが、個室は狭く、図書館は混んでいた。
ロンドン大学の本部にも図書館があったが、大英博物館のそばで、ロンドン南端のうちのカレッジからは遠かった。
マルコムの家は一戸建てで広々としていたし、何より庭が広く、美しかった。
台所も独り占めできる。
バスタブもある。
私は、ふたつ返事で留守番を引き受けた。
12日間、ひとりでマルコムの家で論文に集中できるなんて、何てラッキーなの! 資料とパソコンをリュックに担いで、私は自転車でマルコムの住むオーピントンに向かった。
思ったより坂が多く、距離も長かったので、到着したときは、からだの節々が痛かったが、マルコムは驚いた顔で、それでも暖かく迎えてくれた。
人がうらやむ幸運
鍵を渡され、猫の餌の与え方と植物の世話の方法を教わると、あとは自分の時間だった。
マルコムは、迎えに来たタクシーに大きな荷物と一緒に乗り込み、ニッコリと笑った。
「じゃ、行ってくるね。お土産を買ってくるよ」
お礼を言いたいのはこっちだった。そこまで信用してくれたことも嬉しかった。
現に、マルコムの留守中、一度だけ学友たちをこっそり食事に呼んだのだが、みんな、私の幸運を羨ましがった。
留学生がイギリス人の一軒家を自由に使えるなんて、あり得ない、と口ぐちに言った。
女の子たちはイギリス人の家に興味津々、隅々まで観察し、「いいなー」とため息をついた。
素敵な英国生活で好成績
朝目を覚まし、庭を眺めながらテラスで朝食。
猫に餌を与えて、生ごみを花壇の奥のコンポストに捨てに行く。
庭のあちこちで自然発芽して咲いているキツネノテブクロの濃いピンクの花が、風に揺れて、まるでくすぐったがって笑っているみたいだった。
庭に立つ大きな樺の木にはリスが住んでいて、ときどき降りて来たが、素早く動き回るので、決して捕まえることはできなかった。
庭のフェンスを越えて、夕方には時々、キツネもやって来た。
そんな恵まれた環境の中で、私は論文を書き上げた。
そして、論文でかなりいい点数をもらえたのは、ひとえにマルコムのおかげだったといえる。
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